ビジネスの視点から国際関係を考える(After Fletcher School/フレッチャースクール Life in Boston)

ボストンのタフツ大学フレッチャースクールにて国際関係・安全保障を学び修士号を取得した社会人が、その学びを活かしてビジネスの視点から国際関係を考えていきます。

読書への誘い①「ゲンロン0 観光客の哲学」東浩紀

弊社は非常に面白い組織です。それは、時たま若手に読書感想文が求められます。

暇と思われたのか、読書好きだと思われたのか、中堅の部類に入ってきた私が担当することになりました。

2年目にも担当した時は気が楽でした。その時は少し背伸びをして、上下700ページ近くある「日本-喪失と再起の物語 黒船、敗戦、そして3・11」の感想を書きました。 その時の感想文は、以下にあります。

http://blog.livedoor.jp/bostoninter2/archives/27773349.html

 

さて、今回中堅ともなって、どのような感想文を書こうか、時間もあまりなかったので、気の向くままに選んだ本に関して、徒然なるままに書いてみました。

 

=========<以下本文になります>==========

京都市を訪れる人は年間何人になるだろうか。

答えは5000万人以上である。半年に1度京都を訪れる度に登る大文字山の頂上で、大文字山保全協会の会長さんが教えてくれた。私たちは、この5000万人の人たちを俗に「観光客」と呼ぶ。

 

京都にて、4年間ボランティアガイドサークルに所属したためか、「観光」という言葉には人知れず愛着がある。今年も毎年恒例のサークルのOP会に参加した。紅葉が未だ訪れを告げていない11月の初旬の四条烏丸日航ホテルが舞台だった。サークル創設者(1961年設立)の細川さんから恒例の乾杯の挨拶があった。ビールの泡が消え果るのに十分な、悠久の時が過ぎるのを感じる。京都の時間感覚にしても長い挨拶だったが、「安保闘争の中で、全員が全員、アメリカ反対でも、安保反対でもなく、外国人に正しい日本を伝えるためにガイドをしなければいけないと思った」というくだりに強く共感した。

 

盛会のまま、三々五々に解散して、Air B&Bの布団で眠りについた翌朝は、おきまりの学生時代へのタイムスリップコース。一通りの観光を終えて、大学生協の1階の書籍コーナーに到達。そして、山積みの本に気を取られた。「ゲンロン0 観光客の哲学」と記載がある。外国人「観光客」を4年間案内してきた身としては、気になるタイトル。観光客に哲学もへったくれもないのではという疑問が自然と湧く。学生時代に世界20か国以上観光したが、そこにあったのは、とある国に対する漠然とした興味のみで、哲学が介在する余地は一切なかった。

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「世界はいま、かつてなく観光客に満たされ始めている。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない。だとすれば、哲学は観光について考えるべきだろう。本書の出発点には、まずはそんなあたりまえの感覚がある」というストレートな物言いに惹き込まれた。本書の狙いは、観光客をインバウンド戦略で増加させるような底の浅い商業主義ではなく、「他者こそは大事だ」という手垢のついたリベラルの主張を、「観光客」というキーワードを道具にして、捉えなおす再考だ。

 

いま読むには実に旬のテーマと感じた。政府は「2020年訪日外国人旅行者数4,000万人」を政策目標に掲げているが、過剰な観光客の増加による迷惑行為を指摘する声があがってきている。一方で、例えば、売り物の毛ガニを触る、池にお金を投げ入れる、といった行為は文化的差異に起因していたりする。今後5年間で35万人の労働者受け入れを予定している国の国民としては、手始めに「観光客」について考えることは時宜を得ているだろう。

 

本書の結論部分を先取りすれば、21世紀の世界の特徴は二層構造(政治・経済、ナショナリズムグローバリズム国民国家・帝国)のため、その二層をつなぎ、誤配の可能性を増す「観光客」の重要性が増している(第1部)、「観光客」が依拠すべき新しいアイデンティティは国家と共同体の間の「家族」(第2部)というものだ。(※誤配とは、予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態。例:普段美術に興味のない人でもイタリアに行くと、ウフィツィ美術館に行く)

 

結論のみでは余計な混乱を招くであろう。それもそのはず、この本の醍醐味は、結論部分ではない。この結論に至る過程で、哲学者/東浩紀ならではの論の運びで、螺旋階段を少しずつゆっくりと登っていくような旅を愉しむことができる。この階段の途中には登場人物が多い。トマス・クック、ルソー、ヴォルテール、カント、コジェーブ、シュミット、アーレントヘーゲルネグリ/ハート、と、普段聞きなれない哲学者が多数登場して、思考の補助線になってくれる(1度で理解できないため何度か読んでいる)。

 

どうやら、20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置付けてバカにしていたようだ。ヘーゲルは、家族でも市民でもなく国民になることでしか精神的な成熟はあり得ず、精神的には人間とは言えないと断言した。シュミットは、政治が存在しなければ人間は人間でなくなる、人間は人間である限り、国家・友・敵を作るのだから国家は必ず複数存在しなければならないと主張して、グローバリズムをはなから否定した。アーレントは、自活するための労働者を「労働する動物」として切り捨てた。現実と向き合わない知識人の態度により、人文学の影響力は今世紀に入り急速に衰えている。

 

このような人文学者にとっては世知辛い時代のなかで、東浩紀は、「観光客」という入口から私を非日常(旅)へと誘って、純粋に知的にたのしませてくれた。すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる。本書は、仕事術や政策立案とは一線を画していて、すぐに役立つ本ではない。しかし、21世紀の見通しをよくしてくれる本であることに、疑いの余地はない。京都での誤配=この本との出会い、に感謝の意を表して締めくくりとしたい。

See you in Tokyo.